top of page

ジャム屋が想うちょっと真面目なお話

「里山資本主義」を存知だろうか。地域でこれまで見過ごされてきた足元にある宝を再評価し、価値あるものとして活用することにより、マネー経済だけでは得られない豊かさをつかんでいこうというムーブメントのことだ(このマネー資本主義一辺倒に抗する考え方は、2013年7月に刊行された藻谷浩介著「里山資本主義」で提唱された)。私は今の時代に求められているのは、地域の価値に気付き、その地域に根ざした活動を展開することだと考えている。そこで私たちが取り組んでいるのは、この土地でできた農作物を使い、人の手で作り上げていく生活の充実感を表現していくこと。そして田舎では田舎でしかできない事業を行なうことが理想のスタイルであることを実践によって示すことだ。  そして、そのために私たちの会社にできることは、まずはこの土地、そしてこの地域の人の繋がりからしかできないジャム作りをすることだと考えている。この土地と人々とのつながりから生まれるジャムにしっかりとその味が宿っていることを楽しんでいただく、これこそが私たちの目指しているジャム作りである。以下にわが社の黎明期から現在の取り組み、そして目指す未来への展望について述べてみたい。


 
計画的偶発性

・始まりは新婚旅行での出会い  ジャム屋を立ち上げるきっかけとなったのは、2001年に新婚旅行で訪れたパリでの体験だった。偶然立ち寄ったコンフィチュール(フランス語でジャムの意)専門店の壁一面に並べられた無数のジャム、その多彩なマリアージュ(組合せ)がデザートの「一品料理」のようで、その食文化に心を動かされた。当時、中部地方の電力会社社員として働いていた私は、新規事業関連の部署に在籍した経験を活かし、創作ジャムを主としたローカルベンチャー事業の起業計画書を寝食を忘れてつくった。  ジャムの味を決める最大の要因、それは原材料の果実類の品質。その果実類を新鮮なまま身近に手に入れることができる場所、より多くの種類の果実類が栽培されている地域、そして真剣に果実作りに取り組んでいる人々がいること。このように考えるとパリのような都市部でのジャム造りにはおのずと制約が出てくる。当初はパリをイメージして、私の出身地でもある古都京都でジャム造りをしようと考えていたが、先に述べたとおり「この土地でとれたものを、この土地にしかないジャムにする」というコンセプトのジャム造りがしたいという想いが徐々に強くなった。そこで私たち夫婦は、先の条件に合致する、妻の実家のある瀬戸内の島、周防大島に工房を構える決意をし、この地で精一杯のジャム造りにまい進することを誓った。


・画一的な商品造りから個性を引き出す商品造りへ  それからはただひたすら試行錯誤の繰り返しの毎日。数え切れないほど挑戦を繰り返し、数え切れないほど失敗作を作った。なぜ難しいのか。ある日、私たちは気付いた。それは「全く均一な味」を求めていたからだと。考えてみると当然のことなのだが、人間もひとりとして同じ人はいない。果実も同じ。昨日煮込んだ「いちじく」と今日煮込む「いちじく」は異なる。季節の移り変わりとともに、果実の風味や水分量も微妙に異なる。また、同じ「いちじく」でも、畑の場所でやはり味が異なる。それをまったく均一の味にするためには、とろみがなければゲル化剤を、酸度がなければpH調整剤を、「いちじく」らしい香りがなければ香料を添加するというように、多くの添加物類がどうしても必要となってくる。添加物を使用しないジャム作りをめざしているのに、画一的な味を求めること自体意味のないことではないのか。いつの間にか、工業製品のような食品を作ることに専念していることに、違和感を覚えた。本来原材料の味がその年、その時季、その畑、その栽培方法などによって「異なる」のだから、その味が「異なる」ことを楽しむべきではないか。


【地域の個性=テロワールを味わうワインの世界に学ぶ】  そもそも日本の加工食品は、全てが同じ味にならないといけないという、自然界ではありえない結論を是としている。原材料の味は自然界では変化する。だから加工品の味が変わるのも当然であり、ヨーロッパでのワインづくりなどは、まさしくその考え方が息づいている。ワインはそれぞれの地域・畑、その年々の気候に左右された、出来の異なる果実・品種を最善に仕上げていく。そのテロワール(産地の特性)から生まれる、出来が「異なる」ワインを楽しむことこそが、奥深い食文化であり豊かさなのである。  同様に、例えばわが社では、はっさくをマーマレードにしているが、冬に寒い日が続くと苦みの多いはっさくになる。そんな苦みのあるはっさくはその苦みを活かすべく、チョコレートを入れたタイプとして煮込む。チョコレートが入ると少々苦みがあったほうが美味しく感じるからだ。一方、北斜面のはっさくは酸味がなかなか抜けなかったりする。そんな酸味の強いはっさくは、レモンティーをイメージして紅茶で煮込んだりする。それぞれのテロワールを活かしたマーマレードに仕上げていくことで、その味に深みが生まれる。


・そして創業 2003年11月  そんなテロワール・個性を活かすコンセプトのジャム屋の創業は2003年11月。島の道の駅に47個のイチジク系ジャム(いちじくジャム・ブランデーいちじくジャム・いちじくシナモンジャムの3種)を卸した。これがジャムズ・ガーデンの始まりだった。 「いちじくジャムシリーズ」は私たちの原点。地元の農家の方々に毎朝、その日の早朝に採れた「いちじく」を届けていただいている。「いちじく」は傷みやすい果実なので、朝収穫してすぐに下処理に入らないと、味がどんどん落ちていく。まさにスピードが命のジャム造り。「果実の良し悪しが、ジャムの味を決める大きな要因となる」ということは、つまり、ジャム作りはまさに農家の方々との共同作業といえる。一番はじめに農家の方々との連携で完成できたのが「いちじくジャムシリーズ」で、このシリーズはいまでも当店の看板商品として、多くの方々に楽しんでいただいている。



 
ありのままの地域で

夏季に限定した店舗運営などの試験的販売で、事業化の目処が立った2007年に、11年間勤めた電力会社を6月末に退社。妻の実家(荘厳寺というお寺である)がある、周防大島に移住して、ジャム屋をその7月15日から通年営業へと移行した。2011年には、株式会社として法人化し、現在では30名のスタッフと主に地域の果実を使用して、年間180種類以上のジャムを生産するまでになっている。  しかし、ジャム屋を創業したころの島は、私の予想もしない状況になっていた。


「規模の経済」に取り残された島  農産物にも効率的な大量生産が求められる現代、日本の農業の中心は単品種大量生産型の「規模の経済」に適した産地(平野など)が主体となり、国土の7割を占める中山間地・島しょ部は規模の経済に不利なため、住民が域外に多く流れ出ていくこととなった。私たちがジャム造りの舞台として選んだ周防大島は、まさしくその「規模の経済」の論理で過疎化が進んだ島の代表だった。移住して多くの農家さんと関わるようになって感じたのは、「みなさんご高齢の方が多いのですね」ということ。そんなつぶやきを妻の父である荘厳寺の住職に話すと、「そりゃそうだ、なんてったって高齢化率日本一だからね」と返事が返ってきた。  周防大島町の前身は、久賀町、大島町、東和町、橘町の4つの町であり、中でも本州との架け橋である大島大橋から一番遠いエリアにある旧東和町は、1980年から2000年までの国勢調査では一貫して高齢化率日本一を続けてきた。平成の大合併で2004年に4町が合併し、高齢化率は低下したものの、人口1万人以上の全国市町村のなかでは、今なお高齢化率日本一である。その大きな原因が、島の主産業である農業で食べていくのが難しいという現実だ。目の前にミカン王国愛媛県があり、この島もミカン栽培に適した気候風土ではあるが、山口県は全国の「ミカン」生産ランキングでは18位。「ミカン」生産県としてランクされているのは23県なので、下から数えて5番目ということである。規模の経済原理での勝負ではかなわないのは当たり前。ミカンは儲からないから、主に定年退職者が年金をもらいながら生産する産業となり、後継者は農業で食っていけないから都市部に出ていってしまった。もちろん他にもいろいろな要因が絡んでいるとは思うが、それがこの島の過疎高齢化の主要


・「規模の経済」と「ヴィンテージ経済」  ところが近年、中山間地・島しょ部にも若い人の移住の流れが出来つつある。スピードと規模を追い求めるだけの経済では実現し得ない価値・豊かさをそこに見つけた人々だ。この人々は、個性がなく作り手も買い手も顔が見えない商品の、量と価格のみが問題にされる世界に辟易している。まさしくこの新しい人々の流れが、わが社の取り組みにも大きく重なっている。地域の個性と多様性を繋いで、価値を創造する経済。私はこれを「ヴィンテージ経済」と呼んでいる。ワインの世界では、よいブドウを収穫し、待つことで醸し出す熟成のワインづくりの工程をヴィンテージと呼んでいる。それにあやかったものである。  日本は起伏にとんだ地形と複雑な気象条件、さらにそこに住んでいる人々の個性から、それぞれの地域で多種多様な農産物を生産してきた。これまでは経済的効率性がないため過疎化が進んできた中山間地・島しょ部も、裏を返すと個性と多様性の塊だといえる。  日本が古来二十四節気(冬至・春分・夏至・秋分など)をもち、その季節ごとに旬を楽しんだように、この年、この土地、この気候、この人々だからできる、「ヴィンテージ」を楽しむ成熟した文化は、海外にも通用するはずだと考えている。  その地域の個性と多様性を活かすキーになるのは、地域性を含んだ小ロット多品種生産、地域の異業種をも巻き込んだハイブリッド6次産業化、そしてそのベースには共感と連携をもとめる気持ちがあることだと私は考えている。わが社が、過疎高齢先進の島で年間180種類ものジャムを生産できる理由は、まさしくここにある。


 
繋がりが価値を生む

・競合するより共働する里山~経済原理の「個別最適」から地域視点の「全体最適」へ~  地域が持続してこそ事業も継続できる。私のなかで、周防大島が高齢化率日本一の島だと認識し、ジャム造りと地域のくらしが持続していくこととが、どう繋がるのかを考えざるを得なくなったとき、一つ大きく考え方が変わった。個別最適から全体最適への転換である。商売の基本は安く仕入れて高く売る。農業の場合は安い生産コストで高く売る。高く売れないならたくさん売る。どちらにしても、仕入れは安く抑えるのが基本中の基本。これは、仕入–生産に限定した個別最適化の考え方である。しかし、その個別最適化を突き詰める結果、地域の全体最適化に弊害をもたらしているのではないのか。行き過ぎた(生産経費に対して安すぎる)果実の仕入れ価格設定の結果が、生産者に押し付けられているのではないのか。農家さんに、きちんと再生産を保障し利益も生むような経済的循環が生れれば、次代を担う農家も生まれ育つはずである。そして、それがひいては地域全体の持続性に寄与するのではないのか。ならばジャム屋がやるべきことは2つだと考えた。  1つは、適正なフェアトレード価格で、原料の果実類をきちんと買い求めること。そしてもう1つは、わが社で素材生産にあたっている農業部が、農家さんの競合相手になるのではなく、できる限り補完しあう関係の農業を構築していくこと、だと。


【原料買い入れ価格の考え方と自社の農業生産】  わが社は地域内で生産されている果実は自社生産せず、既存の生産農家と連携することによりその生産農家に経済的循環を生むとともに高品質のジャム用果実を確保している。例えば一般的な加工用ミカンが域内では1kg10円未満で取引されているのに対して、当店では最低100円以上、高い物ではその4倍近い値段で生果出荷用よりも高く購入しているものもある。  一方、地域内での生産が少ない果実・地域内で生産されていない果実類、例えばイチゴやブルーベリー、サツマイモ、イチジクの他、ライムやブラッドオレンジなどについては自社農業部で生産をしている。ミカンの島だから自分もミカンを栽培し、すでに地域内にミカン加工品があるのに、自分も同じミカンの加工品を作って・・・という地域内のカニバライゼーション型6次産業化の発想は、そこにない(カニバライゼーションとは、同一製品市場内でのシェアの食い合いのこと)。農家さんの維持管理できなくなったミカン畑を借りては、ミカンの樹を切って、「島にはないがジャム屋はほしい果物」を自社農業部で生産し、お互いを補完しあう農業を構築している。もちろん新しい果実生産では初チャレンジのことが多いので失敗することも多いのだが。


【島にないジャム素材のイチゴは自社で生産】  そのため農業生産では町や県や国の力を大いに借りつつ、「島にない物は自分たちで栽培すればよい」という、楽観的チャレンジ精神を大切にしている。その一例が最先端のイチゴ栽培。山口県農林総合技術センター、宇部工業高等専門学校、株式会社サンポリ、佐藤産業株式会社といった産官学が連携した最新のイチゴ栽培技術の実証実験に参加させて頂いている。具体的なイチゴ生産の技術的解説についてはここではしないが、小規模多収型で完熟させ、ジャム加工にも相性の良い品種の選定により、当店のハイブリッド6次産業化は新たな高次元へと昇華し、新規人材採用にもつながっている。  一方、最近では積極的な農家さんたちから、「ない物があれば我々が作る」という生産協力の申し出も生まれている。その結果、ジャムの種類が爆発的に増え、今では地域の多様性をジャム瓶に詰め込んで、年間180種類ものジャムを製造するに至っている。「競合するより共働する」連携農家も58軒に上り、現在も増加中だ。



 
これからの話をしよう

・チャレンジの集合体こそが地域力  「地域に埋もれた価値に気付き、その地域に根ざした活動の展開」を実践してきたわが社は、ジャム屋を「人のつながりを作る場」に発展させ、さらに地域内での経済的循環を促進させることと、仕事造りに取り組んできた。周防大島へのUIターンを応援する会「島くらす」を設立し、島への移住者を支援する取り組みをはじめ、最近では地域資源を活用した6次産業と観光産業を連携させたり、移住者目線を地域産業造りに取り入れたりするような活動に、重点を置くようになってきた。島ではUターン者によるオイルサーディンを生産する会社が設立されたり、お餅屋さん・豆腐屋さん・パン屋さん・花卉農家さんなどと連携した新商品が生れたりしている。さらに、そのつながりの輪の中には、障がい者支援施設との共働体制の構築や、お寺のご縁を活用した空き家活用の活動、高校などと連携した、未来の島の起業家を育てる次世代キャリア教育などがあり、それぞれの問題を、地域全体の問題として解決していく取り組みも行なっている。  「人のつながり」作りは、チャレンジしやすい環境・雰囲気づくりにつながり、そして生まれたチャレンジは、一つ一つの規模は小さくても、地域に魅力を与え、地域全体の底上げに大きく貢献している。チャレンジの集合体こそが、地域力なのである。  今後の夢は、「島に第2、第3のジャムズ・ガーデンのような企業が出てきて、島全体を巻き込んだ6次産業化が進む」こと。数年後、数十年後、地域に播いたいくつかの人材の種が花開き、わが社のように地域と共存共栄を図る事業モデルとして定着すれば、島の活性化に向けた起爆剤になると信じている。  これまで見過ごされてきた地域の資源が大きな価値をもつ時代となり始めている。  日本の田舎は、21世紀のフロンティアだ。

松嶋匡史  2017年記



Comentários


bottom of page